都立霊園の歴史
都立霊園の歴史は明治維新から始ります。
江戸幕府の寺請制度(近世初期の1664年に江戸幕府がキリスト教等の信徒に対し改宗させることを目的として制定された制度。)により各寺院がその付属墓地に各檀家の埋葬を行ってきました。しかし、明治政府は1873年(明治6年)、従前の墓地といえども旧朱印内(幕府によって承認された寺院・神社)への埋葬を禁止しました。これに対し市民の不満が高まり1874年(明治7年)、「墓地取締規則」を制定し青山神葬祭地他9ヶ所を市民のための公共墓地として指定しました。
これを受けて東京府は東京会議所(現在の東京商工会議所の前身)に命じ、指定9ヶ所のうち青山・同立山・雑司ヶ谷・染井・亀戸・谷中の6ヶ所を造成し、明治7年9月1日に開設しました。
その後1876年(明治9年)に墓地の造成・管理事務は会議所から東京府に引き継がれ、その管理は墓地の所在する区で扱うこととなりました。
1889年(明治22年)には市町村制の施行に伴い管理は東京市に移管され、同年5月、青山・雑司ヶ谷・染井・谷中の4墓地が公共墓地に指定されました。その後、明治から大正にかけての東京市街の急激な発展に伴い、既存の4墓地は全て使用許可済になり、また深川・亀戸・羽根沢・橋場の4墓地は廃止されたため、新しい墓地を造成する必要に迫られることとなりました。これを受けて郊外三方面に墓地新設が計画され、その第1号として1923年(大正12年)4月、多磨墓地が開設されました。この墓地は我が国古来の習俗を基本としながら、ドイツの森林墓地を参考にした我が国初めての公園墓地です。続いて1935年(昭和10年)7月に八柱霊園が千葉県松戸市に開設されました。
1943年(昭和18年)7月都政施行により市営霊園は東京都に引き継がれ、全都民の需要をまかなうことになり、その後1948年(昭和23年)5月には小平霊園が、1971年(昭和46年)4月には八王子霊園が建設され、都立霊園は計8ケ所となり現在に至っています。
八柱霊園は、東京市が昭和10年(1935年)に当時の千葉県東葛飾郡八柱村に開園した霊園です。 当初は市営霊園として運営されていましたが、都市計画法の決定により、昭和18年(1944年)以降、都立霊園として、東京都に運営が移管されています。 千葉県松戸市の東端にあり、「霊園」という名称を最初に使用した公園墓地で、小高い丘とその谷間につくられた明るい雰囲気の霊園です。正門を入るとフランス風の幾何学模様の庭園があり、谷間を利用した植栽や、宝塔形の給水塔などが美しい景観を作っています。園内にはアカマツ、クロマツが多くあるほか、春にはサクラ、秋にはモミジなど四季折々の自然が楽しめます。正門の外側には、霊園まで続く約700メートルの参道があり、両側に大きなケヤキ並木があります。105ヘクタール(東京ドーム約20個分)に及ぶ広大な園内には、嘉納治五郎、松山恵子、西條 八十、土門拳を始め、多くの著名人のお墓があり、また都営ながらも松戸市あることから、千葉県民である松戸市民は、特例として使用が認められています。